第9回 老いと若者と 本紹介

今日も1日終わりに忘れてる。

こんばんは。色々浮かんでたネタが今この瞬間に殆ど腹の底に沈殿して悩んでます
だいたい、すき焼きが美味しかったせい

今日私が愛する尻図書じゃない私立図書館まで硬いサドルで1時間
走って行けば面白いタイトルの本たちとの出会いが待っていたのですが

虹の歴史に火薬の歴史に老人の歴史と

どれも興味深く、しかし残された私の時間も思いやりながら
私は老人の歴史を選んで読んだんですね。


今日はそんな老人の歴史の冒頭のご紹介。

老いる人とは昔からいた者の事で
平均寿命が低い時代から関わらず
1000年も2000年も前から老人は社会に一定数いては邪険に扱われる存在でありました。

そう現代と変わりないのです。

現代社会に於いて老人は孤独とビンボーの中、ただ一人で死んでいく。

昔は良かった。かつてそこには老人ホームにはない家族の食卓があった。
昔は良かった。息子夫婦と一緒の食卓が1日2回はあったのだ。
昔は良かった。最後は家族に看取られ、優しさの内に生を終える。

現代はそうした繋がりをキズナを喪ったのだと。誰かが言う




嘘を言うな!



かつて・過去・古き時代または、むかしむかし

人類が経験した時代全てに於いて老人はいた。
そして彼らの姿はこう見られる
知識と経験はあるが
身体は不自由で若い時代を懐かしみ、だから若者を妬み、頑固で、全くどうしても面倒な存在。

あぁ現代ではどういうだっけな、老害って単語がありましたかね

大体の大まかな認識はこうだ。現代と何が変わろうか?いや現代と確かに違う事がある。
現代とそれ以前では生きる寿命が違った。
そうですよ長生きしてたら息子が死んじゃうか、どっかに行っちまって
そしたら孫なんて居やしないんですよ

今のように手紙も電話もネットもない時代。少しでも離れればそれは永遠の別離。移動にコストがかかる、しかし出稼ぎに行かねばならない時
さぁ誰も帰ってきやしないのだ。

あぁ現代社会はまるでゆとりですね。


こうして独り生きることになった爺様婆様は独り家を切り盛りするわけですね。

いや、実際切り盛り出来れば良い事なんですがね。むしろ老後の自立こそが理想なのが過去の時代。

独りで生きるのは大変かも知れない。しかし出来てしまえば、それは家族といるより上等な生活

何故なら家族は老人達に対して優しい訳ではない。皆腫れもの扱いするんです。

この当たりの老人達の悲哀を纏めた代表作がシェイクスピアの「リア王」だそうです。

もう殆ど昔に観たので覚えてませんがそんな内容だったかな?
リア充王wとしかイメージが残ってないやい。
あぁ利己的にしか物を考えない人間に王位を継がせる哀しさかな

とここまで書いた内容が本の第1章の半分ぐらいの内容。要は現代も昔も老人は存在し特別扱いも変わって居ないという話。
因みにヨーロッパ中心に纏めてますが、昔から長生きしてる人はある程度いるんです。
ある程度生き残ればそのまま生き続けるのが人類ってやつで

中世においても老齢人口10パーセントやそれ以上の地域があったり。

暗い感じばかり抜き出しましたが、無論現代も昔も老いを謳歌してる人は居ます。

でも今から昔の時代を指差してどうこう言ったって、本質的には変わってない言う事がデータで見れて面白いです

むしろ現代に於いては遠くとも繋がるし、老人ホームだってあるんですね。

確実な進歩じゃないですか。


え?現代じゃ子供以前に配偶者も居なければ老人ホームはブラックの中のブラックだって?

そりゃあ仕方ないですよ。

幾ら技術が進歩しても人のココロまでは繋げないし、人のココロは変わりやしないんですから

ああAIが心を持てばその必要はないや

第8回本と未来への読白

本って何だっでしょうね。

僕らにとっては知識欲と所有欲を満たす対象でしたが、ここ数年でただの文字データの目録に成り果てました。

所有欲よりもその重さと厚さが敬遠され
知識とはネットの名も無いデータの中から引きずり出され
最早小説とはAIが片手間で作る文字遊びでしか無い


そんな時代が来ますかね?

最早目の前に来てますよね。
AIが著名な作家の文字データを学習し小説を作りあげているしhttps://twitter.com/michioshusuke/status/682004986289508353
紙の本はすでに電子化された方がより積めて
知識とはネットの誰かに何処かに求めてしまえば良いのだ

あぁ素晴らしきユートピア
僕らは紙の重さ限界から解放される。

今を生きる僕らが読んできた紙の本とは一体何だったのだろうか?

もともと紙は記録媒体の一つに過ぎない。
それ以前は粘土の板であり竹でありパピルスだった。

しかし人類最古の紙から2100年と少し。もっとも愛用されたのが紙である。

紙は量産が効いた。インク移りもよければ他の物よりも軽い。

重ねて束ねる際にもそれは薄くそして捲るのに最適だった。

紙と共に現代まで続く情報革命は始まった。正確には印刷革新が本命だが紙あっての印刷。
紙は常に文明の主役で無くとも、名脇役として舞台を支え続けてきた。

そして舞台に上がる際には常に本として身なりを整え前へ出て行った。

僕らは本に寄って世界を知り、知識を身につけ、そして時には恋焦がれたかもしれない。

本は単なる記録メディアでは無く、それ自体が一つ一つ象徴として存在していた。
子供の頃との母との思い出
父さんが大事にしまっていた本
ヨレヨレになるまで読んだ愛読書
応接間の壁とかした日本大百科全書

それらは単なる読み物以上のモノとして僕らの生活の一部と化していた。

そして時代は変わり

電子データは全てを塗り替える
1ページに載せれる情報限度は無くなり
物理的な所有を制限される事は無く
それらは結果的にコストも軽減された

素晴らしい。今まで紙が持っていた性能を上回る上位互換だ。

僕らの知識は紙に左右される事は無くなった。今まで以上に知識と体験を手に入れられる。

僕らの目の前には未だに紙の本がいる。
彼らはこれから消えていくのだろうか

明らかに上位互換な存在が存在しており、それは経済的にも勝っている。

道理なら紙の本は無くなるだろう。
しかし受け入れられない人間がいる僕がいる。



あんなに一緒にいたじゃ無いか。最古の紙はイエスキリストの誕生より古い。
一体どうしてそれが消えうるのか


いやいや、紙の登場で今までの記憶媒体は消えたじゃ無いか。劣るモノを使い続けるほど人間はロマンチストじゃあ無い



しかし、未だに和紙は存在している。
…いつか電子書籍を聞きながら眠り
タブレットで學び、恋愛を知るのが前提の世代が来るかもしれない
それでも紙で綴じられる事の意義はあるんじゃなかろうか
…情報媒体としては限界がある。
しかし限界があるからこそ本には肉体がある。
本には重さがあり手触りがありページを片手で捲る体験がある。ここに紙の本としての意義はないだろうか。


デジタルではない、アナログとしての実体が紙の厚みの中にはあると?


電子書籍に於いて、それを認識するにはページ数を示した2次元データしか存在しない。そこで僕らのリアルは存在しないのではないか?
僕らには頭の外にも読書体験が存在した。それは情報媒体としての紙を超えた、本が獲得した一つのリアルだ。


そのリアルとやらに意義を見出すのかい?


いくら情報媒体としては進化したとしても、それを読むのは肉体を持つ人間なんだ。
情報を頭に入れる過程にも目と指を使う限りにはそこに付随するリアルには意義を見出すさ


うむ、その時まで残っている本はもはや情報の媒介者では無く、それ自体が情報であり記憶になっていそうだな


少なくとも古書としての価値は存在するだろうしね。いつか新しく本を紙ベースで作られる日が来なくなるかも知れない。
しかし紙の本を愛用する人が居なくなる訳ではないんじゃないかな。


ただの歴史価値として博物館に残るようではもはや人の間には存在してないと同義だろ?


はは。そこまでいくまでには時間がかかるんじゃないかな。
いくらデータ化したところで電車書籍もページを捲るという基本構造からは抜け出せてないんた。

人々の間から本当に本が忘れさられる時、僕らは情報・データとの付き合い方が根本的に変わってるだろうさ


あぁこれからどうなるのか。一抹の不安と楽しみで仕方がない











第7回 本と空間 巻末おまけ付き☆

こんばんは〜
気付けば1週間。時は早いですね。
キ○クニ屋の本検索はメッチャ遅いけどね。

本屋に行って欲しい本が見つからない時、公立図書館の検索機能より大手の検索機能が遅い時ほど義憤にかられる時はないですね

とまぁ、1時間自転車漕いで本を探しに行った時の愚痴でした。

本命の私立図書館は第1火曜日休館という名のピンポイントショットで僕の心を射止めてきましたけどね。

どうせだから本のネタでいきますか。

本屋は世の中に沢山ありまして、バックのようにブランドがあるわけでも無いのに、よくも沢山出来たなと
本の歴史と賄いきれないジャンルに改めて圧倒されますが

ここで本そのものでは無く、その空間に目を向けたいんですよね

本屋さんの生存競争、図書館のプランニングの差異は、本それ自身よりもそれを取り扱う空間の話になってると思うんですね。

本はよっぽど専門職でもない限り、八割がたの人が求める本はどこの書店にもあるでしょう。

雑誌・自己啓発・小説・漫画と一通りのオーソドックスを揃えてもしかしまだまだ出てくるのが本の恐ろしいところ

どの書店さんも限りある店内でありとあらゆる手段で本を詰めていく。

毎月増える本。しかしその店から溢れ出てこないのは、一瞬の魔法であり底なし沼に吸い込まれていっているのではと
考えているのはわたしですが

実際は知らぬ間に更新されていって消えていく本達がいるんでしょうね

しかし誰から抗議は受けようとも、助けられる定員は限られる。
とりあえず人より高く積み上げてみましたが、如何でしょうか皆様方。
お望みの本はありましたでしょうか?と

大手の本屋さんは一通りのジャンルを揃えますよね。ついでに気づいたんですけど

一フロアあたりの面積が小さいほど、目線より高い位置まで積んでるんですよね。
二階三階とビルの中に作ってるところなんて
通路も狭いし、目線より高くて疲れるし

そうして疲れながら、結局欲しい本も物量の中では見つからない。
そんなモヤモヤを感じるんですね。僕は。

いや、探したいなら店員に頼めとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、生憎本の海の中からピンとくるのを攫いたいたちでして

本が好きな方なら何人が頷いて下さりますかね?本の海を泳ぐ感覚


で、逆にスペースにゆとりある本の置き方するのが郊外とか、広い駐車場を持てるようなところでして

大概が二階はなく、平屋の建物にジャンル毎に直線的に。
しかし、ゆとりある廊下に目線より下または同じぐらいの高さまでに本が収められてる。

実はこれが好きなんですね。
空間的に目線よりしただと圧迫感を感じず、ゆったりと本を物色できる。

ゆったり見ていられるから欲しい本も見つかる。個人的な理想郷ですね。アバロンです。

個人的に見たところ、前者は香川に多く(宮脇書店)後者は徳島(徳島の宮脇もそうだった)に多くて

ただ単に立地の関係ですますより、そうした環境も含めた二つの地域の環境の差がある様な気がしたり

まぁデータ集めないと確実に言えないですけど。

じゃあ最高の環境はどこぞやと考えた時に

ジャンル毎の広さは広いリビングぐらいの空間がいいんじゃないかと考えてます。
というよりそんな至宝の場所があったんですよ!

三階建てながら、圧迫しない量の本。
それを一つのフロアを段差により前後でジャンル分け。
自分の感覚が四方まで及んだ空間において本を探すことができる。

素晴らしい。個人的に岩波新書のなぞの取り揃えや(1980年代のもある)
三階の謎ジャンルゾーン。
そこには押し込められるのでは無く
表紙をどーん!と胸を張るように突き出した本達。

あゝ素晴らしい。本とは自分が見つけるのでは無く、向こうから誘われるモノだと、気付くわけですよ!



少しキモくなりましたが。その本屋さん今はないんですよね。移転らしいです。徳島駅前にあって、どこに転移するのかわからないのが問題なんですが。

あぁあ。いつも他の大きい書店では見失う本が居たり、
何故か女子大生ばかり雇ってたりした雰囲気好きだったんだけどなーーーーーーー!!


あ、エロ本探したい人がいれば個人経営の本屋さんいけば沢山ありますよ。
店の半分はエロ本で中にはDVDだって売ってます。
下手な小説よりエロ本のが丁寧に置かれたりしてますよ^ ^



第6回 車と免許と自動化と

古い知り合いを背中一発で見分けられるんだから、背中は顔以上にかたる場所だと思う

一体何を人は見てるんだろうか
どうもこんばんは

免許更新で中学以来の友人に会いましたが、彼も元気にやっているようで良かったです。

免許という社会保障番号の更新に行ったんだけど友人との再会で全て吹っ飛びましたね。
まぁ、社会に対する保証ライセンスの更新のはずなのに車に関する話とビデオ見ただけでなんですけどね。
アレはどうやらオマケで車を運転できる保証もついてるようで
そりゃあ田舎じゃ車を持ってる事はライフラインの一つであり、ある意味家持ちと同じようなステータス保証だかは当たり前か

でも都会なら完璧にオマケですよね。
洗練された本物のシティーの方にとってはクレジットカードより語らないカードでしょうけど

それでも僕らは自動車運転免許という保証書の更新にやたらと車の事故とそれに対する心構えに対して教わったんですが

そもそも僕はオマケの車に乗らずに3年間、大事にサイフの中で栞のように挟みっぱなしでして。

そんな僕には暖簾を押され続けるような態度で聞いてた訳ですね。
ようは、実際運転した時のシュミレートを頭ん中でしながら恐ろしい現実から逃げてたわけなんですが

だってどう足掻いても車は人が乗って人を跳ねる機械なんですから
どれだけ注意しても人間にはミスするでしょ?
だいたい車に乗ってるのなんて皆セミプロか自称プロじゃないですか。職人でも無いのに車にのるから、感覚で車間距離も測れないし、時速も正確に測れない。

それを僕は今日ビデオを改めて知ったわけなんですよ。東映製作の質の高いビデオを見ながらね。フォントと音楽は公機関が採用しそうなヤツだったけど。

まぁ、曖昧な感覚でミスをする人間が乗っていて、これまた予測不可能な人間ってヤツが端から飛び出してきたりした際にはさぁ!大変

人間とクルマの間には長年の親愛はあろうとも、脳神経とエンジンブレーキは繋がってないわけで
当然の如く反応は遅れ、減速は遅れ

引いてしまった際にはさぁ大変。人とクルマなら当然の権利の如くクルマが悪い!いやクルマ君には罪はない。

人類が獲得した文明の精密機械を自身の靴か何かと勘違いしていたドライバーの責任だ。

あぁそうさ。社会保障カードはマイスター制度じゃないんだから間違っちゃあいけない。
クルマは貴方の愛人じゃなく道具なのだからしっかり責任を取ってくださいねと

いやいや勘弁して下さい。死角は視覚で見えてないんですよ。僕はニュータイプでもエスパーでもない。

死角は死角自体が死角でもあるんだから。オールドタイプな人間に何を求めているんやら。
よく考えて下さい。未だに火遊びで火傷しちゃうのが人類ですよ。やっちゃったの精神も
有史以来から僕たちの脳も視界も根本的に変わっちゃあいないんだ。

それをちょっと百年前から使い出した、道を馬糞で汚さないクリーンで上等な乗り物だからって

そこまで親の仇みたいに咎めんで下さい。轢かれたのが人間なら轢いたのも人間なんです。
どっちにも不注意はあるじゃあないですかぁ。アルコールは赦されないけどねぇ

あぁそれならどうするべきか。

ここに至って出てくるのが自動運転。あぁ素晴らしき人類の英知。
人が事故するなら人からハンドルを取り上げればいい。
おめでとう!僕らは手綱を捨て、シートベルトを得て、今自動運転を手に入れた!

自動運転以前は手動運転になるなだろうか?
そんな事を考えながら免許更新を受講した今日。
受講後に旧友と再会するとは相知らず、しかし考えていた。

自動運転で運転業務を遂行できるなら、車における人為事故はおそらくなくなるだろう。しかし自動運転のシステムは人が介在するのであり、最後までシステムの上には人がいる。歩いていれば走るし、乗り続けるだろう。

では自動化された車で人が殺された時、果たして誰が責任を負うのだろうか。


交通免許証はある意味責任の所在を示す一つのカードではなかったか。

自動運転の世界にも、自動運転免許は存在するだろうし、そもそも進化した交通管理システムは歩行者と車なんてものを同じ土俵に上がらせる愚かな事を許さないかもしれない。

しかし車は馬の延長であり自動運転は車の状態変化なのだから

人と車の関わり方は変われども、人が求める移動手段とそれに対する責任はいつまでもあるのだろう

それを考えながら早く自動運転の時代を夢見て

出来れば僕の免許証が自動運転までに栞から脱却できる事を信じて。

その時が来たら、免許証は社会保障カードじゃあ無くなってしまうかなぁ

高かったんだけど





第5回 体験器官

人が持ってる器官の内最も最速なのは目として

広く取ってくるのが耳とするなら

鼻は何だろうか。時よりふと蘇る昔の記憶。それは匂いから始まる気がする。
ふと鼻に入った香りが自身の記憶を浮かび上がらせる。

そういう意味では、鼻は深みの器官なのかもしれない。

コーヒーのCMでもコクや深みの宣伝ではもっぱら匂いがキーワードな気がする

では舌はどうだろうか

今晩、伊藤計劃虐殺器官なんて読みながら久方ぶりに嫉妬心を覚えつつも
ふと思ったオフクロの味というやつ

実際食べたのは、ばあちゃんの御飯だったんだけど
とりわけ美味しくもないが不味くもない。ただ其処らへんでは覚える事の出来ない満足感にふと思ふ

其処には水分含有率の少し高めのごはんや、塩気の強い玉子焼き、そして市販の味そのもののかまぼこが、味を主張してるんだけども

それを咀嚼する際に感じるのは、何処ぞの料亭でも味わえない満足感で

美味しくて食べ過ぎる事は無く
空腹で暴食する事も無く
ただ口で咀嚼し、落とし込み、満足を得る。このプロセスを体験せしめるのが家庭の味なのではなかろうか

未だ塩分を感じる口の中から感想を引き出しつつ、これを感じていられるのも果たして永遠じゃないと思い

いつしか忘れる事に恐怖を覚えたのでここに残す事にする

そういや匂いには視覚情報がタグ付けされてるけど、味には関してはどうだろ

大好きなラーメン屋の味は匂いと絵で思い出す
でも家の味は匂いでは少し思い出せない

やはり味以外のエッセンスを混ざているからだろうか

いや、家庭の味は家庭でしか味わえないのだからこれは必然なのだ。
家庭である時、僕らは家庭の味を食べている。

それ以上の意味はないのだろう

記憶は劣化しても記録は劣化しない
そして記録が記憶が呼び醒ます事を信じて

果たしてこれを呼び覚ますのは一体どの瞬間、何に触れた時だろうか






ああどうせだから、これを書くにあたって推敲で消えていった300文字の事も記憶しておきたい

ちょっと眠かったのが悪いんだ












第4回目  お正月をもてあます 

モテアマス と アマテラス ってなんか似てない?

お題スロットを見てても、さしあたりの無いお題ばかりだったので頼ってなるものかと決意した第四回です。

まぁ自由な芸風が受け入れられるかは別問題ですけど


そも自由に書くなんてほんとに出来るんですかね?

 

こうやってオープンに書いてる時点で外の目は意識の内にあるんだし、
小学生時代の日々の日記だって先生とのある種の会話の場なのだから、ある種の形式はあったよなぁ

 

そうして思えば希望と未来にあふれた小学生時代、一体どうやって僕らは日記を書いてたんだろう

 

学校終わって家帰って、九時前には寝て…とするなら学校以外のネタは登下校踏まえた6時間くらいのネタになる。

その時間で書いた内容を思い返せば、テレビの内容よりも、登下校で感じた季節の移り変わりや、家族との触れ合い(字ずらがやだなぁ)を中心に書いてた気がする。

学校ネタ以外が家庭ネタになるのは、皆さんもあまり変わらないのでは?他所の家のことは知らんけどさ

 

こんなことを考えるてると、小さい頃の方がよく外を見て歩いただとか、世界は広かっただとか

まぁ万人それぞれ思うところはあるだろうけど、僕は思いますね。

 

今になって考えるのは

大人になるにつれ「暇」を持て余すんじゃないかなぁ

子供の時間なんて、親より早く寝て遅くに起きて、やることは学校行って遊んで帰って飯食って寝て

凄くシンプルな時間の使い方になりそうなんだけど、暇した記憶は無いんだなぁこれが

 

この正月に普段より人が多くなるのは

神社除けばパチ〇コ屋さんであったりすると思うんですよ。別にいいけどみんな時間を持て余したりしてるんじゃない?

家事と仕事以外の時間が出来るような気がして結局何もないままテレビの前でいたりとか(家事は寧ろ増えますかね?それは失敬!)

 

大人になって時間の使い方に暇だから!という理由が大きくなったりしてませんかね?

 

別に悪くはないんだけど、どうしてかを考えた時に

子供の時より忙しくなったからなのか。躰が大きくなって、視野が広がって時間に対する付き合い方を覚えたからなのか。単純に欲望のまま生きていけないからなのか。

 

時間を意識するようになったからこそ時間の使い方を見失いがちにはなるような気がするのはなぜなのだろう

 

ここで1つ、思い出すセリフがありまして

「人間は時間(時計)から解放された方が余計に時間に縛られる」時計を持たないホームレスたちが毎日、決まった時間に決まったルーティンを行う様を評した

とある有名小説の一説です

 

大人になる過程は、時間を意識する過程だとも思うんですけど、ああ果たして人間は時間を真に自由に使えるのだろうかと

 

頭ン中では言葉がパンパンだけどあまりお腹があまりに空腹だ

 

今日はここまでで指を置きます。今日はカレーなんですよ。

 

そういや

今週のお題「年末年始の風景」

なんですね。内容それっぽいからクリアですよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第3回 年越しエビ天は2016年の夢を見るか?

あけましておめでとうございます!orあけおめ!

2016年1月1日の初日の出f:id:kousaku-1449:20160101183758j:plain*1

 

なんて知らない人間の挨拶が飛び交うタイムラインの流れの中で、年を越す時代になりましたね、こんばんは!

 

あけましておめでとうございます!2016年もよろしくお願いします!

 

楽しい年末は過ごされましたか?

SNSが浸透し、個人の孤立化が指摘される昨今、2015年末はみんな紅白で盛り上がってたみたいですね。(個人のタイムライン調べ)

紅白も年末商戦並のライバルとの削りあいの中で、視聴率の苦戦を耳に挟んだりしましたが…

紅白・視聴率の変遷

(ぶっちゃけ過去と比較しなければ十分高い気がする…というか昭和が大正義NHKすぎるんですが)

 

今年はミッキーが出たり、懐かしの歌手が出てきたり、幸子が復活したり(ニコニコ動画とくっついて)とネタに欠かさない歌合戦になったぽいですね。

 

個人的には比較的若い層が食いつけるネタがあり、SNSでも拾いやすい雰囲気はあったんじゃないですかね?

年末に強い「ガキ使」は個人の中で笑いで消化しきれてしまうコンテンツな感じはしますし。

 

そういう意味では家族を超えてSNS上の不特定多数と楽しめる紅白であったんじゃないでしょうか。

個人的には近年の音楽業界の

レコード売り上げライブのチケット売り上げ=コンサートでの一体感と体験

への動きにかぶるモノを感じましたね。

 

ネットで配信してた紅白裏トークなんかもね。面白かったですね。バナナマンとみる紅白、映像が見れずにバナナマンと聞く紅白だったけどね。

 

というかどこぞの組織がオール地テジ化してくれたおかげでね、見れなかったんだけどね。紅白を映像で。どうしてこうなった…

辛いです…実家のお古TVは既に電波を受けられない身体だったから…

 

とまぁ皆さんの断片的情報と雰囲気をSNSで拾いつつ、頭の中で展開して楽しむ高度な年末を過ごす2015でしたね

 

あれ?結局個人でたのしんでる?

 

 

追伸

ノリで書いてたらタイトルのテーマ忘れてたんですけど

消費期限が2015年12月31日の年越しエビ天君は果たして年を越せるんですかね?

2015年に身体を置いていきそうな感じがして凄いと思った(小並感)

 

 

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*1:の初めての日の入りの写真ですpm5時ごろ撮影